ニラと頭痛と清帝国とチベット問題

ここ数日、そこはかとなく家の中にニンニクみたいな臭いが漂っていた。
特に台所から勝手の方にかけてとトイレの中が酷くて、いわば朝起きて最初に向かう所とほぼ合致するので朝っぱらから否応もなく鼻につき、不快であった。更に小便をしても漂ってくるから運動不足で体内に蓄積した毒素で小便まで異臭を放っているんじゃないかと心配になり、自分の体臭も気になって仕方がない。でも、今朝になって臭気の元凶が判明した。それは傷みかけたニラだった。

41DNVW7VB8L._SL500_AA240_.jpgだからというわけではないが、軽い頭痛が鬱陶しいんだわ。きのう図書館で借りてきた本を読んだのだが、歳のせいか本を読むと首と肩がすぐ凝って気分悪くなる。小難しい本と云うこともあるが、読み易くて面白い本でも気がつけば肩が凝っているから同じことで、小難しいぶん頭も痛くなる(のかな?)。
で、その痛みの原因は「清帝国とチベット問題__多民族統合の成立と瓦解」(平野聡 著 名古屋大学出版社)である。
まだまだ読み進んでいないけれど、チベット問題を考える上で清朝を確り理解することは有意義なことのような気がしている。


チベット中国双方の主張の隔たりは正に清朝の支配に対する認識にある。
中国側の主張は、あまりにも恣意的なこじつけが多く納得のいくものではない。更に、「清朝帝国=中華帝国」という前提を当然視しているが、これについては本書の中で平野氏も否定的な表現をしている。つまり、これは(如何なるものであれ)清朝の版図を中華民族国家にすぎない中華民国、中華人民共和国が自動的に引き継ぐ根拠がないと云う事でもある。
清朝の皇帝は、「満州人たち部族長会議の議長」であり、「モンゴル人たちのハーン」であり、「漢人たちの皇帝」であり、「東トルキスタンのイスラム教徒たちの保護者」であり、「チベット仏教の最高施主」である。「特に、雍正・乾隆帝がとった対応は、」「既存の華夷思想を解体し、実力主義的な皇帝に認められた東アジア・内陸アジア諸文化を対等に待遇するもの」で、その結果、「「中華十八省」と藩部からなる「中外一体」の多民族的版図統合が、朝貢国との関係とは別に形成されてゆく」のである。つまり、それまで周辺(国)だったチベットは藩部(=外)として清朝の版図に取り入れられたのだ。
しかし、これは清朝からみた世界観であり、チベットから見た世界観とは違う。
宗主権のことを言うひともいるが、清朝皇帝にとっても統治の正当性のためにはチベット仏教の威光が必要だったわけで、チベットからすれば自国の法王の教えに隣国の皇帝が帰依し、安全保障の肩代わりは喜捨のようなものである。つまり清朝とは対等の関係であり、属国になった意識もない。
しかしながらダライラマの治世はあまりにも脆弱で、近代国家の枠組みとしては余りにもあやふやであった為に、清朝末期から崩壊後の中国ナショナリズムの脅威を防ぐことができなかった。
そして今、中国ナショナリズムの流れは変わらない。変える気配もない。
最後に、雍正帝が明帝国について論じている引用で締めくくる。
「明の太祖は元末の奸民から事を起こしており、人の襲撃を恐れたためであろうか、民の奸を防ぐことに汲々とすることを以て威徳とし、蒙古の衆を撫有するには足りなかった。ゆえに防辺に戦々恐々として、ついに明は一貫して蒙古の侵擾を蒙り、数万万の生民の膏血を費やしてしまった。中国はそれゆえに疲弊したのである。そして明を滅ぼしたのは李自成であった。古より聖人の感人の道はただ一誠のみである。もし籠絡しようという意図を存するならば、それは誠ではない。われが誠意を以て待遇しない人は、やはり誠を以て応じないであろう。これは絶対的な成りゆき(一定之情理)である。明代の君はまず百姓の心を猜疑したので、一体として見ることができなかった。どうして心からの忠誠・服従を得ることができようか。まず、蒙古を畏懼して一家とすることが出来なかったのに、どうして中外一体など実現できようか」

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