Road to TBET その二

そして運命の89年を迎えたのであった。

というわけで、前回は勤め先をバックレ、そして旅の記に繋がるってところまでいった。

と書いて数日放っておいたら、なんか書く気力がかなり失せかけている。いかんいかん。始めたばっかりのブログでこれはいかん。何事も出だしが肝腎。

で、仕事辞めたといっても、会社からすれば無断欠勤を続ける無責任な若造に迷惑を被ったわけで当然クビ。会わす顔もないから暫く友達ん家に身を潜めていたんだけれど、確かその時だったと記憶しているが定かではない。友達の本棚に「中国の旅」というタイトルを見つけた。
お��� 中国の旅行記がある。卒業旅行で中国に興味をもっていた私は、反射的に手に取って目次を開く。すると「上海」の二文字が目に飛び込み、さっそくページを繰った。そして上海のあたりで最初に開いたページを読んでみる���������

皆殺しが終わると、兵隊たちは家に放火した。引き揚げる前に、一人の兵隊は死体を調べて、生存者がいないかと確かめた。生後四ヶ月の赤ん坊はオムツにくるまっていたが、蹴とばすと泣きだした。兵隊は片手でつかみあげた。ひも一本で結ばれている赤ん坊の着物は、ぱらりと落ちて裸になった。兵隊は泣きさけぶ子を地面にたたきつけると、銃剣で突き刺した。背中から腹に貫通した。そのまま、銃剣の先に赤ん坊を串刺しした形で、肩にかついだ。日本軍の一行は、号令とともに整列し、号令とともに出発した。赤ん坊をかついだ兵隊は、隊列の最後尾に加わった。赤ん坊はまだ生きていて、串刺しにされたまま動いている。軍歌をうたいながら、隊列は去った。���p.202 L.5-11)

何これ������������あまりの内容に吐き気を抑えながら改めて目次を見直して、ようやく察知した。
その本は本多勝一の「中国の旅」���朝日文庫���で、そのとき借りてから今も私のところにある。借りた当初は���今もどちらかと云えばそうだが���右も左も興味なかったから本多氏のことは何も知らなかった。「南京」すら知らなかった。だから先入観なしに一気に読んだ。
全く知らないどこかの国の遠い昔の出来事なんかじゃない。一年前に実際に旅した、あの中国である。そこで信じられない地獄絵を日本軍が描いていた。頭がクラクラする。その傍らでTVが天安門の様子を連日伝えていた。どのタイミングで読み終わったのか記憶に定かではない。少なくとも戦車がバリケードを乗り越え自由の女神像が倒れるまでには読み終わっていたと思うが、どうにもこうにも現実が理解できなかった。
あの戦争で人民解放軍は何を守ったのだろう。何のために戦ったのだろう。そして今、国の未来を担う若者たちに銃口を向けて実弾を発砲する。戦車で蹂躙する。何故���

花畑を見に北海道へ小旅行してリフレッシュするつもりでいたけれど、友人の「海外行けばいいじゃん海外」の言葉が最後まで残り、結局���月���日に成田から向かった先は北京だった。
天安門広場の中は立ち入り禁止で、大通りの四つ辻には必ず兵士がいた。しかしピリピリした雰囲気は微塵もなく、兵士の一人に銃を指差して「水平撃ち」の真似をしてみせたら、その若い兵士は笑って手を横に振った。好青年の笑顔だった。北京飯店の前の通りを横断する時、アスファルトの路面にキャタピラの跡が残っていた。

北京からは一気に西の酒泉まで行き、そこからシルクロードの有名なオアシス「都市」を辿りながらイーニンまで西進し、次いで天山山脈を越えて一気にカシュガルまで南下した。
カシュガルではパキスタンから国境を越えてやって来た日本人と知り合ったが、この出逢いが私のその後の生き方を大きく変えてしまうとは思いもよらなかった。そう、彼こそが風太さんである。

やれやれ、これでようやく旅の記に繋がった。この続きは旅の記に任せます。

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